ジャーナリスト 堤未果

総選挙が近づいている。マスコミ各社は政局や支持率関連の報道などで忙しいが、今選挙で有権者が行うもう一つの重要な選択、最高裁裁判官の「国民審査」については、相変わらず殆ど出てこない。

 

学校で子供たちが習う社会科教科書によると、「国民審査」とは「主権者である国民が司法を監視する民主的制度」であるといった内容が書かれている。

だが授業で憲法を教えても、その「番人」を審査する唯一の手段である国民審査が機能していない事実とその理由について説明できる教師は、一体どれほどいるだろう?

 

「国民審査」導入の歴史は、GHQ占領時代にさかのぼる。「国会法立案過程におけるGHQとの関係」文書に記載されているのは、GHQ内の民生局法律家達が、「国民審査権」を民主主義に不可欠な要素だとし、軍部の反対を押し切り日本国憲法に入れた経緯だ。

 

「国民審査権」が存在しない彼らの国アメリカでは、今も最高裁裁判官は引退や辞任、弾劾裁判がない限り生涯解任はない。

 

だがその一方で国民に対しての情報公開は進んでおり、最高裁による全判例や主要裁判の判決概要サイトが公的機関や多くの大学によって一般国民向けに提供され、上院の同意を得る任命プロセスでは必ず公聴会が開かれ、政治的に意見が対立するようなテーマも含め議論の模様が大きく報道される。最高裁裁判官候補の考え方を国民が知るチャンスが、しくみとして存在するのだ。

 

翻ってここ日本では、選挙前に提供される国民審査の判断材料は殆どなく、大半の有権者が投票所で裁判官らの名前が記載された紙を渡され途方にくれるという現状が続いている。GHQにより、国民が直接審判を下す権利を得たここ日本で、同制度のないアメリカに比べ圧倒的にその判断材料がない、これほどの皮肉があるだろうか。

 

期日二日前までに市町村委員会から各戸に配布される「最高裁判所裁判官国民審査公報」に書かれた情報は、裁判官の名前と略歴、生年月日、最高裁で関与した主要裁判と心構えの5項目(一部趣味も含む)のみ、最も重要な主要裁判についての箇所も、単なる事実の羅列であるために司法の素人である一般国民には判断材料にしづらく、「公報」として首をかしげざるをえない不親切な内容だ。

 

さらに司法の監視という本来の目的が機能しているかどうかにも疑問符がつく。

最高裁の裁判官は通常任官されてから最初の総選挙で「国民審査」の対象になる。つまり就任後まだ日が浅く、国民は判断材料になる主要裁判に関与したケースが少なすぎる状態で審査しなければならない。さらに一度審査されるとその結果は最低十年有効なため、平均年齢60歳以上、定年70歳の彼らは任官直後の総選挙で一度だけ審査を経れば、残りの任期はどんな判決を出そうが自動的に実質終身制になってしまう。

 

また、日本国憲法によって、内閣が任命権を与えられている筈の「最高裁裁判官人事」についてはどうだろうか。千葉大学の新藤宗幸教授によると、実際には人事権のみならず裁判所機構全体予算も含め、司法官僚に握られているという。国民に対する情報公開義務のない最高裁事務総局内で重要人事が決められ、その結果も新聞に小さく一段載るだけで殆どの国民は人事交代があった事すら気づかないのだ。

 

不信任に「×」をつける以外は白票でも信任扱いするという現行の審査手法自体を問題視する声もある。人間には、よく知らない他人に×をつけたくないという心理が働く上に、投票用紙を貰わない事で棄権するという選択肢すら殆ど知られていないからだ。マスコミの怠慢が助長する情報不足と無関心が、国民と司法の遠すぎる距離を固定化してゆく。今総選挙では、「投票」への呼びかけと同列に、憲法を通したもう一つの政権監視機能である「国民審査」について呼びかけたい。

週刊現代「ジャーナリストの目」連載記事