ジャーナリスト 堤未果
二〇一六年二月五日。衆議院予算委員会の席で安倍総理は、仕事内容や経験が同じなら原則同じ賃金を保障する「同一労働同一賃金」の法制化検討に言及した。2015年に成立した、派遣労働者が雇用形態に関わらず職務に応じた待遇を受けるという理念を掲げたいわゆる「同一労働同一賃金推進法」の具体化だ。国際労働機関(ILO)は同原則を基本的人権としてILO憲章の前文に挙げている。
だがこれを、「やっと日本も国際水準に近づいた」と喜ぶのはまだ早い。先の「同一労働同一賃金推進法」をよく読むと、その中身はILOの原則とは少々違っているからだ。同法では同じ仕事なら賃金も同水準にする「均等待遇」ではなく、同じ仕事でもその責任範囲に見合った賃金なら良いとする「均衡待遇」に修正されている。その場合、例えば正社員と非正規社員では労働時間や有給、休日など「業務内容」が異なるために、「責任範囲」が違う事が合理化されてしまう。
そもそも欧米企業と違い、高度経済成長期に終身雇用を前提とした年功給で賃金を決定し、社員を家族のように会社に囲い込んできた日本企業では、「同一労働」の定義自体が難しい。実はこの企業文化こそ、長年海外からの企業参入を阻んできた「非関税障壁」でもあったのだ。
だが「世界一企業がビジネスをしやすい国にする」を掲げる安倍政権は、すでにこの岩盤を着々と切り崩している。「国家戦略特区法」では、企業は労働者に金銭を払えば解雇できる規制緩和をする方向だ。3月8日に批准を前提に関連法を閣議決定するTPPが発効すれば、公共事業が自由化され、公共事業に入札した外資企業が雇い入れる自社の低賃金労働者が、日本人の労働賃金を引き下げるだろう。
政府の産業競争力会議の民間議員であり国内最大大手派遣会社会長の竹中平蔵氏は、同一労働・同一待遇が法制化されているオランダを例に挙げ、解雇規制撤廃を主張する。
だがオランダでは同法だけでなく、パート労働者も含めた社会保障や職業訓練、ワークシェアリングや子育て支援、年金制度の強化など、雇用不安払拭の為のインフラが整備されているという事実を見逃してはならない。オランダでは労働者の雇用と生活を保障するこうした政策こそが、失業率低下と消費の拡大、経済成長につながり、EUで高く評価されたのだ。
もし竹中氏の言う「オランダを目指せ」がこうした社会的インフラ部分を無視し、単に同国の労働市場流動化だけを真似るものならば、その先にやってくるのは全く別の未来だろう。
非正規社員の賃金を正社員並みに引き上げるなら賃金と共に失業率も跳ね上がる。逆に正社員を非正規並みの待遇に引き下げれば、格差は縮小するが全体の賃金も地盤沈下してゆく。
グローバル化と株主至上主義は労働市場の流動化を加速させ、様々な国籍の労働者たちが、価格競争に揺さぶられながら国境を越えて移動する。1951年にILOが「同一労働同一賃金」を通じて掲げた「労働者の基本的人権」を、画一化する世界の中で私たちはどうやって守るのか。
非正規のみならず正社員も含めて貧困大国化する今の日本で、着々と労働特区やTPPを進める総理に、今改めてその問いを投げかけたい。
週刊現代「ジャーナリストの目」2016年3月号掲載